#006 有田焼との邂逅は青春時代を越えて
July 03, 2015 - Kazuya Shimokawa
佐賀県民のほぼすべての人が、「私と有田焼史」を持っている。私はそう信じています。強く自覚し、多くを語る人もいますが、身近すぎるために改めて口にしない人もいるでしょう。それでも、この佐賀の地で生まれ育った人は、自身の成長や家族や仲間とのつながりの中で有田焼と接点を持ち続けています。私もその1人です。有田焼と私の出会いは、およそ50年前に始まりました。
1963年、私は佐賀市内の病院で産声を上げ、5歳まで今の高木町で育ちました。日曜日の昼食には、近くの食堂「春駒」から特製の皿うどんを出前に取ることがしばしばあり、3人前ほどが染付の大皿に盛られていたのを覚えています。あれは確かに有田焼の大皿でした。皿うどんをどんどん食べると、皿に描かれた人や動物、植物、風景の絵が現れてきます。おいしい皿うどんがなくなるのが寂しいのか、絵が現れるのがうれしいのか、日曜日の家族の団欒、慎ましいハレの日の食卓を飾った有田焼が、私にとって有田焼の原体験であり原風景です。
その後、1970年を目前に、一家は高木町から神野の新居に移転。高度成長期だったのでしょう、床の間や応接間のガラスケースには多くの有田焼が飾られていました。少年期の私自身がこれらを使う機会はほとんどなかったので、身近な存在ではなかったのですが、食卓は雑器と呼べるような有田焼で隙間がないほど埋め尽くされていました。刺身、煮物、ぬた、お浸し、焼魚...。春駒の皿うどんと並んで、磁器の盛られた我が家のおかずのすべてが私のソウルフードであり、そこには常に有田焼がありました。
10代後半から20代にかけて、青春時代は、私と有田焼史の空白期です。15歳で実家を離れ、寮生活や下宿、アパート暮らしを送っていた私にとって、生活文化や暮らしの潤いは二の次でした。遊びや学業、仕事に明け暮れ、有田焼のことなど、頭の隅にもありませんでした。今の若者もひょっとすると同じかもしれません。
20代後半で結婚し、30代前半で離婚。さらに30代後半で再婚し、40代前半で再び離婚。このころから、私の暮らしに有田焼が再び顔を出し始めました。離婚のたびに大半の焼物を処分しました。焼物がなくなると、まずは小皿が必要。なぜかこう思いました。百貨店の食器売場で手を伸ばしたのが、しん窯の染付の小皿と長皿でした。有田焼だから買ったのか、器として気に入ったのか、今となっては判然としません。しかし、これらの皿は、よく使い、今も活躍しています。私の暮らしを支えてくれた皿です。
40代後半から、私と有田焼史は佳境に入ります。当時、雑誌「日経デザイン」の副編集長、編集長を務めていたころ、有田に呼ばれて講演や相談会を重ねました。現有田町議会議員の手塚英樹さんの計らいで、名児耶秀美・アッシュコンセプト代表、赤瀬浩成・メイド・イン・ジャパン・プロジェクト代表と有田出張を共にしました。若手の経営者や工芸士の方々といろんな話をするようになりました。それが今日、400年事業の国内市場開拓プロジェクトにつながっています。
40代後半に懲りずに再婚。妻や母と一緒に陶器市に足を運ぶようになりました。生まれて初めて、柿右衛門窯の茶器を買ったり、井上萬二窯の向付碗を買ったり、仕事を離れても有田焼との関わりは深まりました。これらの急須や碗は日常的に使ったため、欠けたり割れたりしました。それでも、有田窯業大学校の方々に金継ぎしてもらい、今も食卓で活躍しています。
いま、我が家で増殖中の有田焼は、豆皿(手塩皿)です。現行商品もあれば、ヤフオクで買ったアンティークもあります。これは、書籍「きんしゃい有田豆皿紀行」を編集したことが引き金となっています。これからどんな有田焼と出会っていくのでしょうか。しかし50年を振り返ると、私と有田焼は、常にその時々の家族や仲間と一緒にあったのだなあと感慨が深まります。皆さんの「私と有田焼史」は、どんな物語ですか...。語り合う有田焼があってもいいですね。
※写真1:我が家初の柿右衛門。口が欠けましたが、継いでもらいました。来客時の勝負急須
※写真2:井上萬二窯の向付碗。同時に割って、同じように継ぎました。銘は「双美人」