有田焼創業400年事業 - 佐賀県が取り組む17のプロジェクト - ARITA EPISODE2 - 400 YEARS OF PORCELAIN. NEW BEGINNING. -
ARITA EPISODE2 BY SAGA PREFECTURE
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History

有田焼400年のあゆみ

ARITA EPISODE 1

1616年に日本で初めて磁器を焼成して以来、
匠の技と伝統の美の研鑽を積み、悠久の歴史を刻んできた有田焼。
礎となった400年のあゆみこそが「EPISODE 1」でした。

現代に生きる私たちが、今まさに先人たちからのバトンを受け、
新たなる物語「EPISODE 2」を紡ぎはじめています。

磁器誕生前夜―藩主からの命令は「むざと焼かせるな」
1573
織田信長が将軍足利義昭を追放し、室町幕府滅ぶ。
1592
豊臣秀吉が諸大名に朝鮮出兵を命じ、佐賀藩の鍋島直茂は1万2000の兵を率いて出陣する。
1598
豊臣秀吉が亡くなると日本軍は朝鮮半島から帰国。
1600
関ヶ原の戦い。
オランダ東インド会社設立。
オランダを出航した商船5隻のうちリーフデ号のみ九州の豊後国に漂着。
1603
徳川家康、江戸に幕府を開く。
1609
オランダ東インド会社は幕府から通商許可の朱印状を与えられ、肥前の平戸に商館を開設する。
1616年
国産磁器誕生
1616
金ヶ江三兵衛(李参平)、多久から有田郷乱橋に移住、泉山に磁器原料の陶石を発見する。
1635
徳川幕府は日本人の海外渡航と帰国を禁止する。
1637年
日本人陶工追放と藩の管理体制の確立
1637
佐賀藩は家老多久美作守に命じ、有田・伊万里郷の陶業従事者男女826人を追放し、製陶地を13カ所に整理統合する。
1641
オランダ商館を平戸から長崎出島に移す。鎖国体制が名実ともに完成。
佐賀藩の長崎警固始まる(福岡藩と1年交代)。
1645
鉢22万9040個と茶壷433個がオランダ商船によって長崎に輸入される。
1646年
赤絵付けの成功
1646
柿右衛門が赤絵付けに成功。長崎で製品を唐人やオランダ人に売る。
1647
山本神右衛門が初代皿山代官に任命される。翌年有田に赴任。
1650年
欧州への輸出の始まり
1650
オランダ商船により有田磁器が海外へ輸出される。
1656
清朝は明朝の遺臣鄭成功の活動を封じるため、商人たちが鄭成功に物資を売ることを禁ずる(海禁令の交付)。
中国磁器に変わって有田磁器が大量に生産・輸出されるようになる。
1659
有田磁器がはじめてオランダ本国に輸出される。
1661
清朝は鄭成功の戦力を削ぐため沿岸約30里の住民を内地に写し商船の出入りを禁ずる(遷界令の交付)。
1662
長崎出島に伊万里焼の店を設けることが許可される。
1673
鍋島家御道具山が大川内山に移る(1673~80のあいだ)。
1684
清朝は展海令を交付し、沿岸人民の交易を許す。中国磁器のバタビア(ジャカルタ)への輸出が始まる。
18世紀有田の栄光と悲劇――禁裏御用達・密貿易の断罪・名工の刑死
1705
この頃ドイツでシャルロッテンブルグ宮殿が完成する。
1710
ドイツのアウグスト強王が磁器工場をマイセンに設立し、ベドガーがヨーロッパではじめて磁器焼成に成功する。
1757
オランダ東インド会社は有田磁器の輸出を打ち切る。ただし私貿易による輸出は続く。
1828年
文政の大火、天保の改革、オランダ貿易再開へ
1828
台風のさなかに有田皿山で家事が発生。人家の大部分が焼失。死者40~50人。
1841
久富与次兵衛昌常が藩の許可を得てオランダ貿易を始める。
1853年
ペリーは有田焼を見て何を思ったか
1856
田代紋左衛門が異国向け磁器の製造販売を許可される。
1858
アメリカ・オランダ・イギリス・フランス・ロシアの5カ国と函館・神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港などに関する条約を結ぶ。
1867年
パリ万博での成功を導いた幕末のオランダ貿易
1867
パリ万博に佐賀藩と薩摩藩、幕府が出品する。
大政奉還。15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権の返上を願いでて許可され、江戸幕府が滅ぶ。
1868
明治と改元。
1869年
大政奉還、廃藩置県、そのとき有田にはワグネルがいた
1869
版籍奉還(旧藩主はそのまま藩知事に任ぜられる)。皿山代官は皿山郡令となる。皿山郡令は百武作十。
1870
G・ワグネルが有田に滞在して製陶に関する学理と実技を教授する。
万博時代、アール・ヌーヴォーを産んだ明治有田の超絶の美
1873
オーストリア万博が首都ウィーンで開催され、精磁会社の製品が金賞杯を受賞する。
1875
香蘭社が設立される。
1876
フィラデルフィア万博に香蘭社が出品する。
1889
パリ万博で香蘭社からの作品が人気を呼ぶ。
1896
第1回陶磁器品評会(有田五二会陶磁器評会)が開催される。
1898
有田町窯焼同業者規約を締結。
1900
パリ万博に出品。金賞(杯)を受賞する。佐賀県代表として渡欧した深川忠次が帰途イギリスでエイログラフを購入。
1915年
磁器流通の大変革「有田陶器市」
1915
第19回陶磁器品評会。同期間中に大売出しが行われ有田陶器市に発展。
1930
有田陶磁器工業組合設立。後に有田陶磁器錦付工業組合が合併して肥前陶磁器興業組合を結成する(1943年)。
1946
日本国憲法が公布されると、有田町内の多くの事業所で労働組合が結成され、有田地区窯業労働組合連盟が結成される。
1948
第46回陶磁器品評会が開催され、陶器市が復活する。
1954
有田町営重油窯の火入れ式。
有田陶磁美術館が開館。
1962
第60回有田陶磁器品評会。陶器市の人出は約30万人。売上は約2億8000万円。
1965年
高度成長期の光と影のなかで有田焼の再発見をもたらした創業350年祭
1965
有田焼創業350年祭式典を挙行。
有田天狗谷窯の発掘調査始まる。昭和45年まで続く。
1970年
冷戦期、東西の壁を越え有田マイセン交流の架け橋となった7人のサムライ
1970
有田の7人が東独ドレスデンを訪問(通称「7人のサムライ」)。後の九州陶磁文化館設立や国際交流への途を拓く。
1971
陶都有田青年会議所創立。
柿右衛門製陶技術保存会、色鍋島技術保存会が国の重要無形文化財に総合指定される。
1975
有田焼卸団地落成式。この年山陽新幹線(新大阪-博多)が開通。
1977
有田町本幸平の異人館が佐賀県の重要文化財に指定される。
有田焼直売総合センター開館。
1978
有田町歴史民俗資料館開館。
1979
有田町とドイツのマイセン市が姉妹都市協定に調印。
1980
天狗谷窯跡、山辺田窯跡、泉山磁石場跡が国の史跡に指定される。
佐賀県立九州陶磁文化館開館。
大有田焼会館開館。
1985
佐賀県立有田窯業大学校開校。
1994
佐賀県窯業技術センターを移転新築。

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