有田焼創業400年事業 - 佐賀県が取り組む17のプロジェクト - ARITA EPISODE2 - 400 YEARS OF PORCELAIN. NEW BEGINNING. -
ARITA EPISODE2 BY SAGA PREFECTURE
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有田焼400年の歴史

文: 木本 真澄

万博時代、アール・ヌーヴォーを産んだ明治有田の超絶の美

 1873年のウィーン万博から日本は明治政府として正式に万博に参加します。大隈重信が事務総裁、佐野常民が副総裁を務め、有田に滞在し、技術革新に貢献したドイツ出身の化学者ゴットフリート・ワグネルが顧問を務めました。ワグネルは佐野の強い要望を受けて、博覧会への出品物の選定や海外向けの目録・説明書の作成などを行いました※1

 また、小城の納富介次郎が陶器製造図説編成兼審査官として、伊万里商社の陶工、川原忠次郎が京都の丹山陸郎と共に陶芸研究員として参加するなど、佐賀藩の関係者が重要な役割を担っています※2

 「未熟な機械製品ではなく日本的で精巧な手工芸品を」というワグネルの助言が奏功し、小さな鳥居のある神社や日本庭園に、陶磁器、漆器、銅器など、日本の古美術工芸品を展示した日本パビリオンは大好評で、売店では手ごろな工芸品が飛ぶように売れました。

 万博終了後、イギリスのアレキサンドル・パーク商社が日本庭園の全てを買いあげることを希望し、万博に出品された美術工芸品の販売を目的とした貿易商社「起立工商会社」が設立されています。同社は1876年のフィラデルフィア万博でも出品・販売を代行し、ニューヨークやパリに支店を開き、1891年に解散を迎えるまで、輸出と外貨獲得に貢献しました。

 フィラデルフィア万博の博覧会事務総裁は大久保利通、副総裁は西郷従道、事務局長は町田久成が務め、ウィーン万博での旧佐賀藩士が枢要を占める人事から旧薩摩藩士を中心とする人事に変わります。しかし、ワグネルの助言に基づいた「日本的で精巧な手工芸品」という方針は継続しました。とりわけ、アメリカへの輸出を伸ばしていた陶磁器の出品に力が入れられました※3

 このとき、有田からは香蘭社が出品し、名誉大賞を受賞、深海墨之助や辻勝蔵といった名工の作品が栄えある金牌賞状を受賞します。以降、香蘭社の初代社長、深川栄左衛門は、海外での販売に果敢にチャレンジしていきます。また、納富介次郎は工芸品のためのデザイン帳『温知図録』を作り、輸出品の品質向上に努めるとともに、工芸界に「デザイン」の概念を根付かせました※4

 万博華やかなりし明治時代、有田焼は輸出産業のエースでした。この頃の作品は色彩にあふれ、超絶技巧を駆使した作品が見られます※5。磨き抜かれたフォルムに隙間なく埋め尽くされた美しい文様が見る者の目を奪います。

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撮影:武田 誠司

 欧州における日本ブームが頂点を迎えたのが、1878年の第3回パリ万博でした。

 「我々は、シャン・ド・マルス会場における日本展示場のすべての品物が我々の蒐集家たちの手でかなり高値をつけられてほんの数日で持ち去られてしまうのを目にした。これは、もはや流行というよりも、熱狂であり、狂気である※6

 日本展示場を訪れた美術批評家エルネスト・シェノーはこう伝えています。この万博で、日本の出品物はそれまでで最も多くの受賞数(242点)となり、なかでも陶磁器は高い評価を受けます。その後10年間で日本の陶磁器の輸出額は2.7倍に増加し、17世紀のオランダ東インド会社を通じた輸出最盛期を彷彿とさせます。

 この日本ブームの仕掛け人が、27歳の若さで日本事務長官を務めた前田正名でした。1869年からパリに留学し、ジャポニスムの盛り上がりを肌で感じていた前田は、万博後も継続的に輸出販売することを提唱し、そのためには、万博で高い評価を受ける必要があると関係者に説きました。

 日本の精神を反映する精巧で美的な品物であること、欧米の実用に適したもの、廉価品も重厚に仕上げること※7という前田の方針に呼応し、日本の出品者数・出品数も過去最大になるとともに、その後の輸出拡大の足掛かりをつくりました。また、日本の博覧会事務局は『1878年万博の日本』と題する冊子をフランス語で出版し、日本の政治や文化とともに、陶磁器をはじめとする日本からの出品物を解説しました。さらに、前田は、各種の雑誌に日本の美術工芸品についての論文を掲載、メディア戦略を通じて日本への理解と関心を広げることに努めました。

 この万博で、対外輸出政策がようやく民間企業の利益として実を結びましたが、一方で、日本の伝統的な美を重んじる批評家たちのあいだでは、欧米人の好みを意識しすぎて日本的な美の衰退を指摘する声があがっていました。

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撮影:武田 誠司

 この後、1889年と1900年のパリ万博では、ジャポニスムに代わってアール・ヌーヴォー(Art Nouveau)が最盛期を迎えます。このふたつのトレンドの橋渡し役となったのが、サミュエル・ビング※8という美術商でした。ビングの美術展がきっかけで、日本の美を吸収し、エミール・ガレ、ロートレックのように、独自の新しい美を生み出し、「アール・ヌーヴォーの旗手」と呼ばれるようになった芸術家たちが続々と登場します。

 人々が新しい「美」との遭遇に高揚し、パリが芸術の黄金期を築いたこの時代は「ベル・エポック(Belle Époque) ※9」と呼ばれています。「芸術の都=パリ」として、世界中の人々の憧れを喚起しつづける魅力の原点がここにあります。

 万博時代というのは、フランス革命からおよそ1世紀を経ており、それまでにフランス社会は、政治体制や社会秩序の変化を繰り返していました。絶対王政から立憲君主制、共和制へと政治体制は変わり、身分制度はなくなり、自由がもたらされた一方、恐怖政治やナポレオン戦争がもたらした200万人の死など、混乱に満ちていたのです。このようななか、フランスの人々は平穏な暮らしへの強い憧れをもっていたのではないでしょうか。

 そんな時代に現れたのが、260年余の太平の江戸期を謳歌した日本の美でした。有田焼の名工たちの情熱は、やがて世界中に広まってゆく新しい芸術運動のゆりかごとなったパリに、美のエッセンスを注ぎ込んだのです。

  • ※1 『墺国博覧会参同記要』1998年、フジミ書房
  • ※2 松本源次『炎の里有田の歴史物語』1996年、山口印刷
  • ※3 『米国博覧会報告書~フィラデルフィア万国博覧会報告書』1999年、フジミ書房
  • ※4 「万国博覧会と有田焼」『ふでばこ』33号、2016年、白鳳堂
  • ※5 鈴田由紀夫監修・執筆『明治有田 超絶の美』2015年、世界文化社
    企画展『明治有田 超絶の美 万国博覧会の時代』は、2016〜2017年にかけ全国の美術館で巡回展を開催。
  • ※6 寺本敬子「1878年パリ万国博覧会における前田正名の役割―ジャポニスム流行の立役者―」『万国博覧会と人間の歴史』2015年、思文閣出版
    訳出は寺本氏による。原典はE.Chesneau, ≪Exposition universelle; Le Japon à Paris≫ Gazette des Beaux-Arts, Paris, le 1er septembre 1878
  • ※7 祖田修『前田正名』1987年、吉川弘文館
  • ※8 美術商ビングは日本の美術を紹介する美術誌『芸術の日本(Le Japon artistique)』を発行し、数々の展覧会を企画。ヨーロッパの主要な博物館などに日本美術を納品した。
  • ※9 「ベル・エポック」とは、「美しき時代」の意。「古き良き時代」などとも。19世紀末から第一次世界大戦勃発前まで、ヨーロッパの諸都市で芸術と経済の繁栄が謳歌された時期を指す。その中心となったのが1855年から1900年までに計5回開催されたパリ万国博覧会である。印象派など数々の新しい芸術運動が花開いた。
    山田 勝『回想のベル・エポック―世紀末からの夢と享楽』(1990年、日本放送出版会)、福井憲彦『世紀末とベル・エポックの文化』(1999年、山川出版社)、陳岡めぐみ『現代美術用語辞典 1.0』などを参照。
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撮影:武田 誠司

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