有田焼創業400年事業 - 佐賀県が取り組む17のプロジェクト - ARITA EPISODE2 - 400 YEARS OF PORCELAIN. NEW BEGINNING. -
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有田焼400年の歴史

文: 木本 真澄

1869年―大政奉還、廃藩置県、そのとき有田にはワグネルがいた

 生産額2.5兆円、日本が世界シェアの4割を占め、先端技術でも世界をリードするセラミックス産業。人間国宝が名を連ねる伝統工芸から、製造工程を高度に制御し、新しい機能や特性をもたせたファインセラミックスまで、他の材料産業にはない多彩な発展を遂げています※1

 いまから150年近く前に有田を訪れたドイツ人化学者、ゴットフリード・ワグネルは、今日の日本のセラミックス産業の近代化に貢献した「育ての親」であり、技術史上もっとも重要な人物の1人です。東京工業大学(当時の東京職工学校)、京都府立図書館、そして有田駅と、国内3カ所にワグネルの功績を称える記念碑や像があることは、ワグネルが行く先々で慕われ、尊敬を集めていたことを物語っています。

 ワグネルが長崎で有田焼に触れ、その生産地に行こうと思わなければ、今日のセラミックス産業の発展はなかったかもしれません※2 ※3

 ワグネルは、1831年にドイツのハノーバーで生まれ、ゲッティンゲン大学で21歳という若さで博士号を取得します。その後、フランスで語学の個人指導やスイスの工業学校で教職に就くなどして過ごし、36歳のときにジョン・ウォルシュというアメリカ人事業家の勧めで石鹸工場をつくるために長崎にやってきました。

 ワグネルが長崎に到着したのは、江戸幕府から天皇家に政権が返上された大政奉還の翌年、1868年5月のことでしたが、この頃ワグネルの故郷ドイツでは、北ドイツ連邦が成立したばかりで、その中心となったプロイセンでは、ナポレオン3世の治めるフランスとのあいだで普仏紛争が始まっていました。この時代、ヨーロッパでも政変が多く、政治的な理由で本国を離れた人々も少なくありませんでした。ワグネルもその1人だったと考えられています。

 しかし、新天地を求めて訪れた長崎での石鹸事業はうまくいかず、翌1869年、ワグネルは、同じ長崎のウォールド商会に雇われます。そこで、ワグネルは有田焼と出会います。ウォールド商会でのワグネルの仕事は、長崎商会から輸出向けの磁器を買いつけることで、理化学の知識を用いながら、品質検査のようなこともしていたようです。

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 有田焼への知識が深まるとともに、有田への興味が昂じ、ワグネルは「有田から熱意のある者を連れてきてほしい」と長崎商会の者に頼みます。そして、佐賀藩・有田郡令 百武作右衛門(作十)の許可を得て、赤絵職人の西山孫一と、窯元の山口代次郎が、長崎のワグネルの実験室を訪れます。そこで、ワグネルは金を王水(濃塩酸と濃硝酸を3:1で混合した液体)で溶かして見せたり、不足しがちな薪や木炭の代わりに石炭を燃料に用いる方法を教えたりしました。

 有田の人々と関わっているうちに、ワグネルの熱意はいよいよ高まり、「どうしても有田焼の産地に視察に行きたい」と言い出します。この頃はまだ外国人が自由に日本国内を旅行することはできませんでした。外国人への敵愾心をたぎらせた攘夷派士族があちこちに潜んでおり、いつ不意打ちに合うかもわからない時代だったのです。

 高いハードルがあったにもかかわらず、ワグネルの思いは百武を通じて藩主鍋島直正に伝えられ、快く認められました。殖産興業に力を入れていた佐賀藩にとって、高度な理化学の知識をもったワグネルからの申し出は「願ってもない」ことでした。1867年にパリ万博に参加して以来、窯業関係者らは、有田焼でヨーロッパの色鮮やかな陶磁器を再現したいと考え、試行錯誤を重ねていましたが、国内には、美しい絵を描ける最高の腕をもった職人はいても、ヨーロッパの陶磁器の鮮やかな色彩を再現できるだけの科学的知識をもつ者はいなかったのです。

 ワグネルの有田滞在期間は1870年4月下旬から8月上旬までと、4カ月に満たないわずかな期間でしたが、辻勝蔵や深海墨之助・竹治兄弟といった若手陶芸家とともにさまざまな実験を試み、有田焼の躍進に大きく貢献しました※4

 その功績は大きく3つあげられます。1つはコバルト顔料の使用、もう1つは釉薬の研究、そして石炭窯の開発です。いずれも、競争力のある商品をつくっていくうえで重要な技術でした。社会経済が大きく変化するなかで、国内外の磁器産地との競争が激化しており、有田焼が窯産業として生き残っていくためには、さまざまな技術革新が求められていたのです。

 当時、染付には、高価な呉須(ごす)を中国から輸入して使用していましたが、ワグネルは、有田の人々に、工業的に製造されたコバルト顔料を用いることで、大幅にコスト削減できることを教えました。また、釉薬についても数々の実験を行い、当時有田で使われていた釉薬の科学的組成を明らかにし、コスト削減や再現性の向上に貢献しました。

 そして、薪や木炭よりも低コストで量産化に向いている石炭窯での磁器生産にも取り組みました。薪や木炭は、藩が山林を管理しているうちはいいのですが、廃藩置県で藩による管理が行き届かなくなれば乱伐を招き、土砂崩れなど災害の危険性が高まります。一方、佐賀藩をはじめ九州には炭鉱があり、石炭を入手しやすいことがわかっていました。

 このとき、ワグネルが有田で試作した石炭窯での焼成は成功しませんでしたが、ワグネルが示した実験方法や科学的探究心は有田窯業界に受け継がれていきました。そして、ワグネルの初来訪から約40年を経て1909年、ワグネルの薫陶を受けた深川栄左衛門らにより、本格的な石炭窯が香蘭社の工場内に築造されます。石炭窯は、薪や木炭を使う登り窯と比べて3割以上も燃料費を削減でき、電線部品の碍子(がいし)の製造に大いに役立ちました※5

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 1870年に話を戻しましょう。8月にいったんワグネルとの契約が切れると、佐賀藩の百武郡令は、再度ワグネルと長期契約を結ぶことを試みますが、廃藩置県により百武が職を解かれたこともあり、契約は成就しませんでした※6

 有田を去った後のワグネルは東京大学の前身となる大学南校(開成学校)に雇い入れられることになり、以降、62歳で没するまで、日本で化学教育に携わりました。ウィーン万博(1873年)とフィラデルフィア万博(1876年)では欧米に日本を紹介する“アンバサダー”の役割を果たすと同時に、日本の職人たちがヨーロッパの進んだ技術を学ぶために留学の世話をするなど、献身的に働きました※7

 有田を離れて後も、ワグネルが教え子たちと続けた窯業の研究成果は、有田はもちろん、日本中の焼き物づくりに貢献しました。1892年11月に東京・駿河台の自宅で亡くなると、本人の希望により青山霊園に葬られます。没後もワグネルを慕い、その功績を後世に伝えたいという熱意をもった人は数多く、1937年には、故ワグネル博士記念事業会発起人203人により、ワグネルが創設にかかわった東京工業大学に記念碑が建立されました。

 大学の講義がないときには磁器産地を訪ねて科学的組成を調べ、大学側に助手を雇う予算がないときは私費で助手として雇い、その献身的な姿は多くの日本人に影響を与えました。民間初のセメント会社、小野田セメントを創設した笠井眞三は「陶磁器と先生、先生と陶磁器、恰も是は二つであるか一つであるか分からない感じがする」と述べており、その情熱のほどがうかがえます。笠井はワグネルの勧めによりドイツに留学しましたが、留学先選びにおいても、留学前の指導においても温かい気遣いに感激したことを語っています※8

 日本のセラミックス産業は、17世紀の磁器誕生以来、21世紀においても世界をリードしつづけていることは、産業史上「稀有」なことといえるでしょう。先進技術の普及とともに、前近代的な産業は衰退せざるをえないのが常であり、明治初頭に近代化の波に乗れなければ、衰退して過去の遺物と化していた可能性もあります。

 ワグネルが欧米との競争力という視点で、生産コストを抑える技術を若手陶芸家や窯元経営者たちに伝えたことは、有田焼が明治大正期を生き延びるうえで決定的に重要でした。もし、ワグネルが日本の伝統工芸を耽美的に愛するだけの「好事家」であれば、なしえなかったことです。

 あるいは、ワグネルが短期的な事業収支にのみ意味を見出す「商人」であれば、その後の有田および日本窯業界の発展はなかったでしょう。いかなる事業活動においても、目先の収支が他の価値に優先すると新たなチャレンジができなくなり、発見や創造は生まれず、やがて事業は尻つぼみになってしまいます。

 ワグネルはまた、明治政府に雇われた数多の「お雇い外国人」とも違っていました※9。ワグネルは、日本の伝統工芸の芸術性を非常に重視しており、それこそが、欧米人が絶対に真似できない日本の産業競争力の源泉となると語っています。類似品を安くつくるだけでは、資本力の大きい欧米企業が設備投資をすれば、すぐに駆逐されてしまうと説き、文化・文明を越えて見る者を魅了する芸術性を活かし磨きをかけるべきだと力説しました。さらに日本独自の芸術性とは、伝統的な生活様式やそのなかで育まれてきた美意識の産物にほかならず、それを伸ばすためには、日本人としての個性も尊重されるべきだと考えていたようです。

 ここで、ワグネルの教え子の1人であり、京都を中心に美術工芸会に指導的功績を残した工学博士 中澤岩太がワグネルを想って詠んだ歌を紹介します。

外国の人と思うふな先生の 心つくしは我國のため
めくみ深き君のみをしへとこしへに 清く流れて盛り行くなり※10

 ワグネルの人となり、そして後世にもたらした影響を物語っています。

 江戸から明治へと政治体制が変わり、社会経済が大きく変化するなかで、有田皿山はもっと旧態依然とした過去の遺物になっていた可能性もありました。しかし、有田の人々は、ワグネルとの出会いを通じて多くを吸収し、競争力のある産業へと発展を遂げました。歴史を振り返れば、有田焼は、磁器誕生の頃から朝鮮半島や中国の技術や文化を受容し、オランダ貿易を通じてヨーロッパの美意識にも触れおり、このような異文化受容の経験が、近代化の素地となったと考えられます。

 有田焼の歴史のなかには、さまざまな異文化との出会いがあり、それが契機となって、成長発展をとげてきました。日本初の磁器誕生から400年を迎え、これまでの経験を次の100年200年につなげていくための新たなイノベーションが期待されています。これを実現していくうえで、ワグネルの生き方に見られる日本的美の尊重と科学的探究の両立は、重要な示唆をもたらすものではないでしょうか。

  • ※1 矢野友三郎(日本ファインセラミックス協会・専務理事)『国内外におけるセラミックス産業の現状と今後について』2016年、三重県 生産技術兼評価・分析研究会
    一般社団法人日本ファインセラミックス協会「2015年ファインセラミックス産業動向調査」によれば、2兆4510億円(2015年度)となっている。
  • ※2 橋本謙一「ワグネル来航百周年に当たって」『セラミックス』3[7]1968年、公益社団法人日本セラミックス協会
  • ※3 寺内信一『有田皿山雑記』1930年
  • ※4 寄田啓夫「佐賀藩有田におけるワグネルの窯業技術指導とその意義」『香川大学教育学部研究報告 第1部』83号、1991年
  • ※5 佐藤節夫「ドクトル・ワグネルの生涯と明治初期の日本(1)~(5)」『陶説』1988年、日本陶磁協会
  • ※6 有田町史編纂委員会『有田町史 陶業編Ⅰ』1985年、有田町
  • ※7 植田豊橘『ドクトル・ゴットフリート・ワグネル伝』1925年、博覧会出版協会
  • ※8 笠井眞三「先生の薫陶が後世に及ぼしたる影響」『ワグネル先生追懐集』1938年、故ワグネル博士記念事業會
  • ※9 ユネスコ東アジア文化研究センター編『資料 御雇外国人』1975年、小学館
    政府は欧米の進んだ技術を取り入れるため、多くの欧米人を雇い入れ、その数は1868年~1889年までの22年間で、2690人にのぼる。そのなかには、後発国である日本を蔑む者も少なくなかった。多くは任期を終えるとともに帰国した。
  • ※10 中澤岩太「ワグネル先生来歴第一段」『ワグネル先生追懐集』1938年、故ワグネル博士記念事業會
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