有田焼創業400年事業 - 佐賀県が取り組む17のプロジェクト - ARITA EPISODE2 - 400 YEARS OF PORCELAIN. NEW BEGINNING. -
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History

有田焼400年の歴史

文: 木本 真澄

1867年―パリ万博での成功を導いた幕末のオランダ貿易

 「幕末、佐賀藩ほどモダンな藩はない。軍隊の制度も兵器も、ほとんど西欧の二流国なみに近代化されていたし、その工業能力も、アジアでもっともすぐれた『国』であったことはたしかである」

 司馬遼太郎が幕末の佐賀藩を描いた短編『アームストロング砲』の書き出しです。佐賀藩の「モダニゼーション=近代化」を推進したのが、英明との誉れ高き10代藩主鍋島直正です。文政の大火(1829年)により大きな被害を受け、疲弊した藩の財政を立て直した辣腕ぶりが伝えられています。佐賀城下に蔓延していた奢侈贅沢の風潮を戒め、質素倹約に努めるように「倹約令」を発し、直正自ら朝食は一汁一菜とし、洗いざらしの木綿の着物を着て範を示しました※1

 質素倹約は有田皿山の窯焼(窯元)と伊万里の商人らにも及びました。有田磁器は各地の商人らの手を介して日本中に出回っていましたから、皿山は諸国の景気の影響を受けやすかったといいます。窯焼も職人たちも好況のときは、競うように贅沢のかぎりを尽くし、不況になると窮乏を極めるという状態を繰り返していました。儲かるときにはとことん儲かる皿山では、蓄財は蔑視され、10年先20年先の暮らしを安定させるために、貯蓄しようなどという考えはなかったようです。

 暮らし向きが窮すれば職人の流出や粗悪品の流通を招き、有田のブランドに傷がつきます。品質向上には、良質な原材料の仕入れや道具や設備の維持管理、職人の育成などへの再投資が欠かせません。藩の重要な産業を守っていくためにも、窯業関係者らも質素倹約・貯蓄・勤勉に努める必要がありました。

 同時に、有田皿山の窯業経営の健全化は、佐賀藩の「近代化」に欠かせない重要課題でもありました。1848年、直正は「国産方」を設置し、長崎警護のための軍備増強と、その資金調達を目的とするオランダ貿易に、一体的に取り組みます。有田磁器は主要な輸出品であり、ヨーロッパ人好みの品物をつくり、品質を高め有田ブランドを築いていくことは国産方にとって、もっとも重要な仕事のひとつでした。

 この頃日本はまだ公式には鎖国していますから、オランダ貿易は藩命を受けた久富与次兵衛と田代紋左衛門に限って行われていました。文政の大火の影響で生産力が落ちていたこともあり、田代は有田のみならず、隣の平戸藩の三川内焼も輸出向けに仕入れ、販売していました※2。藩境を越えての取引は当時御法度とされていたために表向き御咎めもありましたが、優先課題である兵器近代化のための資金繰りという点では、藩財政に大いに貢献しました。また、この頃の試行錯誤を通じて、ヨーロッパ人の好みを把握していたことは1867年のパリ万博以降の商機につながります。

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 直正は、「算盤大名」「蘭癖大名」※3と揶揄されることがありますが、直正がもっていた確かな時代認識と長崎警護に対する責任感、ひいては日本を守ることへの使命感を考えると、これらの言葉が狭量な、やっかみの産物にすぎないことがわかります。

 直正が軍備増強・兵器近代化に熱心に取り組んだ背景には、父=斉直の頃に長崎で起きたフェートン号事件(1808年)がありました。佐賀藩は、江戸幕府から、福岡藩と1年交代で長崎警護を任されており、佐賀藩の時代にイギリスのフェートン号が長崎に侵入するのを許してしまい、その責任を問われ、斉直は謹慎処分となります。18世紀末からロシアは江戸幕府に通商を迫り、そのほかの国もオランダを通じて開国を要求するなど、外圧は次第に強まっており、佐賀藩の有力な家臣たちは強い危機感を持って直正の教育にあたりました。直正が近代化に熱心に取り組んだのは、こうした時代の要請を受けてのことだったのです。

 直正は再三にわたり幕府に長崎の軍備増強を提案しますが、財政難を理由に退けられ、自ら資金繰りと科学技術の近代化を成し遂げるほかありませんでした。直正が凡庸な人物であれば、また佐賀藩に有田という輸出品の産地がなければ、日本の近代化は大幅に遅れていたかもしれません。あるいは、お隣の清国のように、欧米列強の植民地にされてしまった可能性も否定できません。直正自身、何度も長崎に出向き、自らオランダ船に乗り込むなかで、国際情勢にも精通していましたから、欧米との軍事力の格差や隣国の植民地化には大いに危機感を感じていたことは間違いありません。

 直正が財政再建と近代化に心血を注いでいる頃、江戸幕府はペリー来航(1852年)を受けて後、1854年にアメリカ合衆国と日米和親条約を締結します。これを機に1639年以来200年以上続いてきた鎖国を解き、イギリス、フランス、オランダ、ロシアとも通商・国交を開いていきます。

 それとともに、幕藩体制は急速に弱体化し、明治維新への動きが活発化していきます。フランスのナポレオン3世から、駐日公使のレオン・ロッシュを通じて、第2回パリ万国博覧会(1867年開催)への招聘が届いたのは、この維新へ向かう激動の真っただ中のことでした。安政の大獄や桜田門外の変、生麦事件、薩英戦争など、外圧を受けながらの内政のかじ取りは困難を極めていたため、フランス公使ロッシュからの申し出を受けた1865年の段階では幕府は万博への参加に即答していません。しかし、1866年4月になると、大名や豪商らに万博への参加を呼びかけ、将軍の名代として、15代将軍徳川慶喜の弟、徳川昭武(当時 14 歳)をパリ万博に派遣します。

 これに応じたのが肥前(佐賀)と薩州(薩摩)、そして瑞穂屋卯三郎という江戸の商人だったとされています※4,5。しかし、1865年の段階で、薩摩藩はすでに、薩摩藩開成所を中心に15人の留学生を欧州に留学させ、新納久脩(にいろ・ひさのぶ)や五代才助(友厚)といった重臣たちは紡績機械や武器の買い付けを進めています。さらに、薩摩藩はベルギー貴族モンブラン伯爵を代理人とする貿易商社設立の契約を交わしており、幕府の命を待たずに独自に「薩摩・琉球国」としてパリ万博への出展を進めていたのです※6,7

 つまり、実情は薩摩の動きに幕府が追随するかたちであったということです。佐賀藩は幕府に応じるかたちで、パリ万博への参加を決め、三重津海軍所で蒸気船の建造や人材育成の責任者だった佐野常民を派遣しています。このとき、長崎の貿易商トマス・グラバーの協力でイギリスに渡り先進技術を学んでいた石丸安世と馬渡八郎もパリで佐野常民らと合流し、通訳として大いに活躍、有田焼などの販売を助けました。

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 1840年代から長崎の佐嘉商会を通じてオランダとの貿易に乗り出し、ヨーロッパ人の好みも把握しようと努めてきた佐賀藩にとって、万博は絶好のチャンスです。海外情勢に明るかった鍋島直正も、万博参加に積極的だったことは間違いありません。しかし、薩摩藩のように、あからさまに幕府の立場をないがしろにすることはありませんでした。

 1867年のパリ万博は、日本が国際社会にデビューする重要な舞台であり、ここで日本を統治する支配者は誰なのかを示す必要があり、幕府の参加はそれを意図したものでした。しかし、薩摩・琉球国が独自の勲章をつくりナポレオン3世に贈るなど、すべからく先んじて行動していたために、フランスの新聞には将軍は有力大名の1人であり江戸幕府は諸藩のなかの強大な存在でしかないと書かれてしまいます※8

 この報道を受けて目的を達した薩摩藩代表の岩下方平は、「皇政復古の運動に尽力すべし、諸君も予に賛同せられよ」と佐野常民に告げ帰国します。鍋島直正は、佐野常民からこの報告を受けて大いに喜びました※9。幕府の力が弱体化するなかで、幕臣のなかにフランスの力を頼みにしようという者がおり、直正はそのような生ぬるい考え方では国難を乗り切れないと兼ねてから忠言をしていました。そのため、欧州との交易を通じて自力で国力を高めようと果敢に挑む薩摩のやり方に溜飲を下げる思いがしたのでしょう。

 激動の時代、日本が国際社会へのデビューを飾ったパリ万博。日本会場を華やかに飾った有田焼の背後には、ときには幕臣に忠言し、ときには薩摩と幕府のあいだを取り持ち、内憂外患を乗り切るためにあらんかぎりの知恵を絞っていた直正の姿が浮かび上がります。

 日本を代表する実業家、渋沢篤太夫(栄一)は、この使節団に、昭武の随員として加わり、揚子江、上海、香港、サイゴン等へ立ち寄った記録やパリ万博の見聞、欧州の政治、財政、美術、工芸、軍事、風俗習慣まで、詳細に記録しています。

 そのなかで、磁器や漆器をはじめとする日本の工芸品や日本女性が茶を振る舞う数寄屋造りの茶屋が大変な人気を博したことを「歐羅巴(ヨーロッパ)人好事家を幻惑すべき諸玩物※10」と記しています。「幻惑」とは誇張が過ぎると感じるかもしれませんが、この一語の裏には、1840年代から4半世紀かけて佐賀藩と貿易商・有田窯業界がヨーロッパ向けの輸出に傾注してきた努力、そして鍋島直正や佐野常民らの苦心があります。

 17世紀の輸出最盛期から200年の時を経て、第2回パリ万博を機に、有田焼は再び世界の人々を魅了します。世界に開かれた視野をもって激動の時代のかじ取りをやりきった藩主直正、その先進的な教育を受けて育った藩士たち、大胆に商機をつかんだ貿易商、そして日本磁器発祥の地のプライドをかけて焼き物づくりに臨んだ名工たち、どれが欠けてもパリ万博の成功はなかったに違いありません。

  • ※1 中野礼四郎編『鍋島直正公伝』第二編、1973年、西日本文化協会
  • ※2 中島浩気『肥前陶磁史考』1985年、青潮社
  • ※3 中野礼四郎編『鍋島直正公伝』第三編、1973年、西日本文化協会
  • ※4 渋沢栄一『徳川慶喜公伝』4、1968年、平凡社
  • ※5 外務省著、大塚武松編『徳川昭武滞欧記録』1932年、日本史籍協会
  • ※6 宮永孝「ベルギー貴族モンブラン伯爵と日本人」『社会志林』47、2000年、法政大学
  • ※7 公爵島津家編纂所編『薩藩海軍史』中、1968年、原書房
    パリ万博において、徳川慶喜公伝には、幕府が指図したと記載されるが、※5・6などの史料のほか、薩摩藩御用窯「沈壽官窯」の展示を通じて、薩摩藩が幕府に先んじていた可能性が高いと考えられる。
  • ※8 國 雄行『博覧会と明治の日本』2010年、吉川弘文館
  • ※9 中野礼四郎編『鍋島直正公伝』第六編、1973年、西日本文化協会
  • ※10 渋沢栄一著・日本史籍協会編「航西日記」『渋沢栄一滞仏日記』1928年、東京大学出版会
    1867年のパリ万国博覧会には、プロシャやバイエルン、ロシア、トルコ、エジプトなどから皇帝や国王、その名代が出席した。日本からは徳川将軍家の名代として徳川民部大輔昭武が将軍家の名代として出席し、その後締約諸国を巡回した。渋沢は陸軍奉行支配調役としてこれに随従し、滞仏記録として、「航西日記」(1871年・明治4年初版)を、欧州の風俗習慣などの社会状態、政治・財政・美術・工芸・軍事百般について観察した公式記録として「巴里御在館日記」「後巡国日録」(付英国御巡航日誌)を残している。『渋沢栄一滞仏日記』は、この時代を知る重要資料として、東京大学出版会からこれまでにも何度か再版されているが、本稿では1928年版を参照した。
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撮影:武田 誠司

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