有田焼創業400年事業 - 佐賀県が取り組む17のプロジェクト - ARITA EPISODE2 - 400 YEARS OF PORCELAIN. NEW BEGINNING. -
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History

有田焼400年の歴史

文: 木本 真澄

1853年―ペリーは有田焼を見て何を思ったか

「日本人はきわめて勤勉かつ器用な民族であり、製造業の中には、他国の追随を許さないほど優れたものもある。」
「磁器―日本人は磁器製造を得意とし、中国製のものより優れているという人もいる。」
「ともかくわれわれが見たことのある日本製の磁器は非常に繊細で美しいものである。」

『ペリー提督日本遠征記』※1より

 1853年、黒船でやってきたアメリカ合衆国海軍提督マシュー・ペリー。「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船) たつた四杯で夜も眠れず」という狂歌は、当時の人々が受けた衝撃を物語っています。ペリーは帰国後、歴史家F・L・ホークスに、日本への遠征記の編纂を依頼しました。ペリーとその秘書官や士官らの航海日誌のほか、特殊任務についた専門家たちの報告書をもとにまとめられたのが、「Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan」※2、すなわち『ペリー提督日本遠征記』です。

 本書を紐解くと、ペリーらが、実に入念に日本のことを調べ上げていたことがわかります。文献だけでも、13世紀のヴェネツィア商人マルコ・ポーロが記録した中国人からの伝聞から、当時としては最新の長崎・出島に滞在したドイツ人医師シーボルトの報告書までを網羅し、内容は日本の統治機構や階級制度、法律やコミュニティのあり方、宗教、文化、言語、植生から技術力まで多岐にわたっています。

 オランダ貿易商や長崎・出島滞在経験者からの報告、そして日本からの輸出品を手にしながら、製造技術についての情報も集め、評価しています。「磁器」とだけ書かれており、産地まで特定されてはいないものの、ペリー艦隊の航路から考えて、有田焼を手にしたことはほぼ間違いありません。

 ペリー艦隊は、1852年11月、アメリカ東海岸のバージニア州ノーフォークを出航し、大西洋を渡り、ポルトガル領マデイラ島から南アフリカ・ケープタウンへと南下、インド洋を渡ってシンガポール・マカオ・香港・上海・琉球(沖縄)を経由して1853年7月に浦賀に入港しました。当時のアメリカはまだ西部開拓が始まったばかりで、大型の蒸気船の造船所や港は東海岸にしかなく、南米最南端の難所ホーン岬を通る太平洋航路よりも大西洋・インド洋航路のほうが安全だったためと考えられます。また、毎年6~7月(旧暦)に長崎に入るオランダの貿易船と同時期に同じように主要な貿易港に寄港することで、日本に関する情報収集には大いに役立ったはずです。

History

 日本に開国を迫るという、失敗の許されない大統領命令を帯びたペリー艦隊。その乗組員たちにとって、7カ月あまりの日本への航海はどんなものだったのでしょうか。

 ときに冷淡なまでに簡潔明瞭な報告のなかで、磁器に関しては「非常に繊細で美しい」という賛辞が贈られています。楽しみの少ない船上生活において、日本製の磁器の白い輝きは、ペリーや船員たちに束の間の安らぎをもたらしたことでしょう。

 と同時に、2000年以上もの歴史※3をもつ日本という国と、独立してからわずか76年のアメリカ合衆国との違いに、さまざまな思いを巡らせたはずです。古から独自の文明を築き、宝石にも匹敵する美しい器をつくる国=日本と、広大な大陸の開拓にまい進する国=アメリカ、その違いを前に、この二カ国の交易の扉を押し開く任務の大きさに武者震いを覚えていたかもしれません。

 この頃の有田焼の流通には大きな変化が起きており、それは日本の近代化を牽引することになります。

 佐賀藩10代藩主鍋島直正は、1841年から久富与次兵衛に、長崎で直接オランダ貿易商に有田焼を販売することを許し、さらに1848年からは藩直轄の佐嘉商会※4を設立し、有田焼の輸出に力を入れています。この頃有田皿山は、壊滅的な被害をもたらした文政の大火からの復興期にあり、多くの名陶家を輩出※5しており、ペリーらがオランダ貿易船の寄港地で手にした有田焼も佐嘉商会・オランダ貿易商を通じて海外にわたった名品であった可能性が高いのです。

 日本はいまだ開国前夜、有田焼はすでに海を越えていました。そして、その貿易で得た利益は幕末佐賀藩の蒸気船をはじめとする技術開発に投資されていきます。2015年7月に、「明治日本の産業革命遺産~製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産のひとつとして世界文化遺産に登録された三重津海軍所跡から発掘された磁器の「灘越蝶文(なだごしちょうもん)」は、激動の時代、佐賀藩の技術革新にかける意気込みを物語っているのです。

 同時に、その文様は、鎖国という制約さえも乗り越えて海を渡っていった有田焼の大航海を映し出しているようにも感じられます。もしかすると、ペリーは有田焼に、大海原を越えて新たな交易の時代を開こうとする自分自身の姿を重ね合わせて見ていたのでは…?そんな想像さえかき立てられるのです。

  • ※1 M・C・ペリー、F・L・ホークス、宮崎 壽子訳『ペリー提督日本遠征記(上・下)』2014年、角川学芸出版(Perry, Matthew Calbraith, Hawks, Francis L., Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan,1856)
    明治時代以降、何度か訳書が出版されているが、本稿では最新の宮崎壽子訳を参照。
  • ※2 歴史家F・L・ホークスの巻頭言によれば、「Narrative~」は、ホークスが、ある「文人」の助けを得てまとめたものである。「文人」が誰かは不明だが、その内容が、単なる記録を超えて、簡潔明瞭でありながらもロマンティシズムを湛えた読み物としての面白さを備えている点から、日本に関心を寄せていた相当の文化人であったと推察される。
  • ※3 『ペリー提督日本遠征記(上・下)』は、『古事記』や『日本書紀』に記された神武天皇(紀元前660年~)の建国神話をもとに、日本の歴史や封建制度の成り立ちについて述べられている。
  • ※4 永竹 威『伊万里―日本の陶磁 (1) 』1973年、保育社
  • ※5 松本源次『炎の里有田の歴史物語』1996年、山口印刷
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佐賀市教育委員会 提供

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