有田焼創業400年事業 - 佐賀県が取り組む17のプロジェクト - ARITA EPISODE2 - 400 YEARS OF PORCELAIN. NEW BEGINNING. -
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有田焼400年の歴史

文: 木本 真澄

1828年―文政の大火、天保の改革、オランダ貿易再開へ

 1828年(文政11年)8月9日に起きた「文政の大火」により、有田皿山は焼け野原となりました。風速30メートル、屋根瓦を吹き飛ばすほどの暴風雨が九州を襲い、有田では岩谷川内の窯元の素焼き窯の火が飛んで燃えひろがる大火災となり、50人以上の命が失われました。

 この大火による有田の焼失家屋は850軒にのぼり、佐賀藩全体の1647軒の約半分を占めています。皿山ではほとんどの登窯の屋根が焼失し、辻家をはじめとする旧家で保存されていた系図などの文書もすべて灰になってしまいました。寺々の過去帳も焼失し、白川の代官所のみを残し、「有田千軒」と言われた街は跡形もなくなってしまったのです。この台風の被害は九州のみならず四国、中国、北陸、東北にまで及びますが、佐賀領の被害がもっとも大きく、石高36万石の90%にあたる31万石が損害を蒙ったことが記録されています。

 命だけは助かったものの、着るものも食べるものもなく、職も失って難民と化した有田内山の職人たちのなかから外山、大外山や長崎県の波佐見、三川内へと移住する者が続出し、当時最高水準にあった内山の技術がその外側に流出しました※1。「内山崩れ」と呼ばれるこの「工人散布が今日の大肥前窯業圏を形成する動機になった」※23と論ずる有田の歴史家もいる通り、その結果、内山以外の肥前各陶産地の製品が大きく向上します。

 翌年、藩は火災にあった佐嘉城本丸の復旧工事を始めましたが、有田皿山からの献金は免除するとともに窯元の復旧を支援するため、低利で資金を提供しています。

 この頃の佐賀藩の窮乏ぶりは、文政の大火から約2年後、天保元年(1830年)に17歳で家督を継いだ10代藩主直正(1815~1871年)が国もとへ向かうときのエピソードが如実に物語っています。

 なんと直正一行は、品川宿で待ち構えていた債権者たちに取り囲まれて身動きできなくなってしまったのです。文政の台風の被害で歳入が激減しているにもかかわらず、長崎警備のための負担や派手になった生活習慣によって支出を減らすことができず、佐賀藩は破産寸前の状態にあったといいます。

 家督相続早々に借金取りに終われるというみじめな経験をした直正は、国入りするやいなや「質素倹約令」を布告し、財政再建に努めます。

 朝は味噌汁と漬物だけ、昼と夜は干し魚か魚の煮焼きの物程度の粗食を常とし、衣服は木綿のみ。冠婚葬祭も簡素化し、花嫁が巡見の下目付から絹の衣裳を剥ぎ取られた上、銀の簪も取り上げられることもあったと伝えられています。このように藩をあげて倹約に努める一方、米や磁器の生産に力を入れる改革が強行されていきます。

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撮影:水田 秀樹

 しかしながら、天保7年(1836年)には全国的な天候不良で飢饉が起き、皿山復興に取り組む佐賀藩には重い足かせとなります。

 そんな厳しい状況にありながらも、窯業に重きを置く藩としては、皿山代官の要請を受けて窯元の資金繰りを精一杯支援しました。にもかかわらず、天災続きで人心は荒み、紛議や争いごとが絶えなかったため、天保9年(1838年)、藩は皿山に「教導所」という部署を設けて取り締まりを強化します。と同時に直正は儒学者草場佩川を教導所に派遣し、有田皿山における教育にも力を入れていきます。

 災害や飢饉、そしてその後の復興に向けた施策を佐賀藩が打ち出していた頃、長崎では、漆器商浅田屋茂兵衛と提携して有田焼を販売していた陶商久富与次兵衛が、オランダとの直接取引に乗り出していました。有田焼の鑑定を頼まれたことが機縁となってオランダ領事との交渉に成功すると、久富は藩に願い出てオランダ貿易の許可を得ます。

 この品物は、刑死した嬉野次郎左衛門らが密輸したものと推定され、それが縁となって久富与次兵衛が長崎に支店を開設することができたのは、歴史のあやというほかありません。富村、嬉野らの死から1世紀余りを経た天保12年(1841年)のことです。

 藩主直正は、これら有田焼の産業振興策に加えて、農民の暮らしを豊かにする農業財政政策にも乗り出しています。西松浦郡に限って、小作料を向こう5カ年間3分の1だけ軽減し、小作人に対して軽減された小作料を貯蓄して土地を買い取るよう命令したのです。戦後の農地改革を先取りしたような大胆な改革は、直正の先進性を物語っていますが、この一連の改革に大きな影響を与えたのが古賀穀堂(1778~1836年)と正司碩渓(1793~1857年)という2人の儒学者です。

 碩渓は絵書きが使用する絵筆の販売や質屋を家業とし、その合間に近くの子弟達に教育を施していました。遠方からも教えを請いに来る者がいたと伝えられています。文政の大火で碩渓自身も財を失いますが、新たな土地を開墾して生活を立て直すとともに、天保2年(1831年)には『経済間答秘録全20巻』を著わしました。この書は側近の古賀穀堂を通じて直正に届けられ、破綻寸前にあった佐賀藩財政の再建に大いに貢献しました※3

 先進的で英明な藩主直正の下に優れた人材が集まり、藩の改革が進んだことで有田皿山は復活し、さらなる躍進に向かいます。

  • ※1 有田内山地区とは、泉山磁石場から有田中学校のあるあたりまで、現在のJR上有田駅の周辺を指す。外山は内山から見て南に位置する下有田と西に位置する広瀬山、そして北に位置する伊万里の大川内山と一ノ瀬山を指す。そして、大外山は内山地区の東に位置する武雄市山内町の筒江山や西川登町の弓野山・小田志山など、そして南東に位置する嬉野市の吉田山・内野山を指す。さらに、長崎県の波佐見町は有田から見て南、三川内は南西部に位置する。文政の大火をきっかけに、磁器の生産拠点は有田の外側に大きく広がり、佐賀藩主鍋島直正が打ち出した復興のためのさまざまな施策によって、有田焼はさらなる発展へと一歩踏み出していくことになる。
  • ※2 中島浩気『肥前陶磁史考』1985年、青潮社
  • ※3 杉谷 昭『鍋島直正 (佐賀偉人伝) 』2011年、佐賀県立佐賀城本丸歴史館
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