有田焼創業400年事業 - 佐賀県が取り組む17のプロジェクト - ARITA EPISODE2 - 400 YEARS OF PORCELAIN. NEW BEGINNING. -
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History

有田焼400年の歴史

文: 木本 真澄

18世紀有田の栄光と悲劇――禁裏御用達・密貿易の断罪・名工の刑死

 有田焼400年の歴史のなかでは、実にさまざまな出来事が起きています。語り尽くせないほどの人間ドラマは、まるで有田焼の多彩さと呼応しているかのようです。

 ここでは、18世紀に起きた明暗際立つ3つの出来事を紹介します。明るい方の話題の代表格といえるのが辻家の「禁裏御用達直納」です。禁裏とは宮中、皇居、御所の意味で、今日の言葉では「宮内庁御用達」となります。

 宝永3年(1706年)、上幸平の辻家4代の喜平次愛常に朝廷から磁器を直納するようにとの命令が下り、天皇の言葉を書いた書「綸旨(りんじ)」と天杯を賜っています。

 そのきっかけをつくったのは、仙台藩主の伊達綱宗(1640~1711年)でした。綱宗は、江戸の陶商伊万里屋五郎兵衛を介し、辻家3代目の喜右衛門がつくった染付磁器を手にすると、その精巧さに感心し、直ちに御所に献上します。

 これを受け取った霊元天皇(1654~1732年)が大変喜び、佐賀藩主鍋島光茂(1632年~1700年)に命じて、辻家の磁器を「禁裏御用達」とする勅諚を下しています。これ以降、天皇家で使用される器は鮮麗な青花白磁になります。

 明治8年(1875年)に香蘭社が設立されるにあたって、当時の当主・辻勝蔵が創設メンバーに加わっています。勝蔵の姉セイは八代深川栄左衛門(1832~1889年)に嫁ぎ、辻家と深川家は姻戚関係を結びました※1。香蘭社が創業時から宮内庁御用達となり、明治・大正・昭和と続く激動の時代を生き延びて大きく躍進することができた理由のひとつには、18世紀から続く辻家の精巧な染付の技術を受け継いだことがあると言えるでしょう。

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撮影:武田 誠司

 次に、有田で起きた悲劇にも目を向けてみましょう。ひとつは富村家の密貿易事件、もうひとつは名工副島勇七の刑死です。

 富村家は元々鹿児島城下の豪商で、2000石余の巨船5・6艘を所有し、印度貿易を営んでいましたが、初代源兵衛の時代に伊万里に移ってきました。16世紀末、薩摩藩領内では浄土真宗門徒への弾圧が激しくなったため、門徒だった富村家は家財を船に載せて分家の森三郎共々伊万里港に逃げてきたのです。富村家が伊万里・有田に移ってから約40年後の寛永12年(1636年)には鎖国体制が敷かれ、海外との貿易ができなくなりますが、莫大な財力を背景に、その後も資産家・豪商として繁栄します。

 順風満帆に見えた富村家でしたが、4代目の勘右衛門のときに悲劇は起こります。貿易によって財を築いた祖先のことを思うと、勘右衛門は逸る気持ちを抑えることができなかったのかもしれません。富村家の番頭、嬉野次郎左衛門とともに、幕府の禁制を犯して有田焼の海外貿易を画策。勘右衛門は伊万里港で焼物を積込み、次郎左衛門が待つ平戸港に向かいます。ここで平戸の商人、今津屋七郎右衛門の協力を得て印度方面へ密航し、出先で仕入れた品物を国内で販売して大いに儲けます。

 しかし、それも束の間、次郎左衛門が大阪で販売した舶来品から足がついて、今津屋七郎右衛門とその関係者まで悉く逮捕されてしまいます。次郎左衛門は長崎の獄舎での過酷な拷問に耐えて勘右衛門の関与を否定しましたが、勘右衛門は観念して享保10年(1725年)5月、有田町大樽の自宅で自害します。勘右衛門が死んだことを知ると次郎左衛門は罪を認め、七郎右衛門らと共に、長崎で磔にされ、最後は晒し首となりました※2

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 18世紀の有田では、もう1人、名工副島勇七が晒し首の刑を受けています。勇七は皿山きっての名工で1780年代には大川内山の藩窯で働いていました。大川内山には優れた職人たちが集まっており、技術の漏洩を防ぐため、藩は関所を置いて職人の出入りを厳しく管理していました。

 副島勇七は本職のろくろ細工のほか、原料の調合や彫刻、捻り細工、窯積みまで焼き物づくりに精通し、独特の妙味のある作品は賞賛の的でした。しかし、勇七は、自由のない生活に不満を感じ、「藩窯の窮屈な制度を改革せよ」と官吏らに抵抗していました。その態度が目に余ることから、藩は勇七に何度も謹慎を命じていましたが、卓抜した技術を持つ勇七を手放すわけにはいかず、寛大な待遇を続けていました。

 しかし、勇七の増長は止まらず、藩としても見逃すわけにいかなくなり、ついに勇七は御用職人の資格を剥奪されてしまいます。仕事を失い困窮した勇七は寛政9年(1797年)、妻子を捨てて遁走します。

 その後、京都の市場で瀬戸焼の陶器の中に色鍋島を模写したものが見つかり、そこから足がついて徳川御三家尾張侯領内の瀬戸に潜んでいることが判明します。顔料の呉須売りに変装した佐賀藩の下目附小林伝内は、まんまと勇七をおびき出すことに成功し、取り押え佐賀城下に護送します。勇七は「生命だけは助けてくれ」と嘆願し、藩主治茂も死罪を減刑したい気持ちはあったものの、藩法を曲げることはできず、寛政12年(1800年)12月28日、勇七は嘉瀬の刑場で斬首され、見せしめに大川内の街道鼓峠に晒し首にされます※3

 富村勘右衛門も副島勇七も進取の気性をもった人物で、幕末~明治に生まれていれば大いに活躍したのではないでしょうか。刑死した人々の存在は、有田焼の歴史の重みを物語っているようです。

  • ※1 尾崎葉子「孝明天皇から下賜された茵(しとね)」~辻精磁社の至宝~『季刊皿山春号』通巻77号、2008年、有田町歴史民俗資料館
  • ※2 『皿山びとの歌』有田町歴史民俗資料館報No.20 1993年、有田町歴史民俗資料館
  • ※3 知北万里『広報ありた9月号』1996年、有田町
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