磁器誕生前夜―藩主からの命令は「むざと焼かせるな」
有田焼の誕生前夜の16世紀、天正年間(1573年~1592年)頃の日本では武将たちが戦いの合間に茶の湯に興じていました。この時代、茶道具として使われていたのは、「土もの」と言われる陶器でした。まだ日本では磁器を焼くことができず、中国や朝鮮から輸入された磁器は、一部の上層階級だけのものだったのです。
朝鮮半島を舞台に、豊臣秀吉が率いる日本軍と、明およびその朝貢国である李氏朝鮮の軍とが戦った文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)はこのような時代に起きた戦争でした。豊臣秀吉の死により日本軍が撤退するとき、諸大名がこぞって朝鮮半島の陶工たちを日本に連れ帰ったことから、「焼き物戦争」とも呼ばれます。 有田焼の生まれた肥前佐賀藩の藩主鍋島直茂も何人かの陶工を連れ帰りました。直茂をはじめとする西国大名たちは帰国するとすぐに朝鮮人陶工たちに焼き物をつくらせはじめ、数年後には、古田織部の茶会記に九州を産地とする茶器が登場します。
慶長7年(1602年)、直茂の長男、勝茂が国もとの家老鍋島生三に送った手紙は、茶道具がいかに貴重なものだったかを現代に伝えています。
「このごろ、古田織部殿そのほか、方々の茶会に出席したところ、佐賀にいる朝鮮陶工の焼いた肩付(かたつき茶入れ)や茶碗が茶席に出た。それについて現在京都の三条でやきものを焼いている者たちが佐賀に行くとのことである。この前も佐賀にくだって焼き物を焼かせ、それをもちのぼったとのことである。むざと焼かせぬように申し付けよ」(佐賀県史料集成)
勝茂は京都からきた連中に「焼き方を教えてやすやすと焼かせてはならない」と家老に指示しています。技術を外に漏らさず、秘密のヴェールに包んでおくことで、より価値を高めようとしたのでしょう。織田信長と豊臣秀吉は、茶の湯を家臣掌握のために利用し、第一級の茶人が高く評価した茶道具は「一国一城に値する」とみなされていました。