1970年―冷戦期、東西の壁を越え有田マイセン交流の架け橋となった7人のサムライ
西洋白磁の至宝マイセン。透き通るようななめらかな白地に、淡い桜色や山吹色、若草色などの軽やかな式調で描かれた上絵、フォルムに沿って描かれた繊細な金の縁取り、各工程における最高の技術が集まり、深みのある芸術性を醸しています。
世界中の人々を魅了するマイセン磁器には、柿右衛門様式が生み出した非対称性と余白の美学がしっかりと根を下ろしています※1。
マイセンで初めて硬質磁器の製造に成功したのは1709年。当時ドイツ東側のザクセン州からポーランド・リトアニアまでを治めたアウグスト強王(1670~1733年)が錬金術師ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーに命じたことに始まります。ベトガーは、宮殿のあるドレスデンから北西25kmのマイセンに幽閉され、何十年もかけて実験を繰り返し、ようやく磁器製造に成功すると数年後にこの世を去ります。
磁器の製造技術は何百年ものあいだ、中国が世界のトップを走り、朝鮮、日本がそれに続きました。マイセンで磁器の生産が始まるまで、ヨーロッパで磁器といえば東アジアからの貴重な輸入品だったため、アウグスト強王は自国での磁器生産に執念を燃やしたのです。
ヨーロッパの東洋陶磁への憧れは、古くは十字軍遠征に始まります。イスラム世界を介して遠くアジアから運ばれてきた陶磁器は宝石のように珍重されました※2。15~16世紀の大航海時代を経て、17世紀、イギリスやオランダが東インド会社を設立すると、ヨーロッパの貿易商らの手を介して王侯貴族たちの宮殿にアジアの品々が届けられるようになります。17~18世紀、ヨーロッパの王侯貴族たちは競うように中国や日本の磁器を収集していました。
そのようななかで、アウグスト強王は、柿右衛門様式に代表される自然界の美を特徴とする日本の磁器=有田焼をこよなく愛し、ツヴィンガー宮殿には膨大な数の古伊万里(17世紀有田焼)が収蔵されています。「濁手」と呼ばれる柔らかく温かみのある乳白色の地肌を持つ柿右衛門は、特別な価値を持つ白い磁器でした。今日、ドレスデン美術館日本宮殿(Japanisches Palais)で、そのすさまじいまでの収集欲を直に見ることができます。
アウグスト強王は建築と芸術にあくなき情熱を注ぎ、ドレスデンは「エルベ川のフィレンツェ」とも呼ばれる、欧州有数の芸術都市となります。有田焼の美が、ドイツ有数の芸術都市において、マイセンに結晶した歴史に思いを馳せると、その輝きはいっそう深みを増して見えるのです。
歴史的つながりから、まだベルリンの壁で東西ドイツが隔てられていた1970年代、有田町とマイセン市は姉妹都市提携を結んでいます。これは、1970年、有田の窯業関係者が東独を訪問したことがきっかけでした。
その顔ぶれは、深川正(香蘭社)、酒井田正(14代酒井田柿右衛門)、山口秀市(ヤマト陶磁器)、武富忠勝(親和陶磁器)、森正洋(陶芸家)、金子源(源右衛門窯)、蒲地昭三(賞美堂)の7人でした。1954年に公開され、ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞し、後の映画作品に多大な影響を与えた映画『七人の侍』になぞらえて、有田の“七人のサムライ”と呼ばれています。
香蘭社には、19世紀末の万博時代にヨーロッパから持ち帰られたデザインブックがあり、その中には必ずといっていいほど、ドレスデンと添え書きされた古伊万里の絵が掲載されていました。そのことに興味を引かれた深川正氏は、イギリス大英博物館の東洋陶磁の権威、ソーム・ジェニンス(Soame Jenyns)の著書を通じて、東ドイツのドレスデンに、4000点という膨大な古伊万里のコレクションが存在していることを知ります。
しかしながら、ジェニンスがそのことを確認したのは、第二次世界大戦前のことで、戦後は未確認であったため、戦争で大きな被害を受け、歴史的建造物の多くが破壊されたドレスデンで、いまもその古伊万里が残っているのか定かではありませんでした。
ドレスデンの古伊万里コレクションの存在を確かめようと、深川氏はドレスデンの陶磁美術館の館長、インゲローレ・メンツアウセン氏に何度も手紙を書きます。約半年後、深川氏の元に届いたメンツアウセン氏からの返信には「貴殿の入国を歓迎する」と簡潔に書かれていました。
東西冷戦時代、東ドイツへの訪問を実現するための外務省との交渉は難航しましたが、文化交流使節という名目で、深川氏らは、どうにか東独訪問にこぎつけます※3。このとき、七人はドレスデンやマイセンのほか、ヨーロッパ各地の主要な窯業地を訪問し、その成果を有田に持ち帰ります。
その目的は、欧州の「陶磁器の精髄に目や肌で触れ、切磋琢磨の場にもなる国際級の美術館を作りたい」というものでした。東西の陶芸文化を比較し、交流の軌跡を調べることが必要だと考えたのです。さらには、かつての有田焼輸出最盛期のように、国際的な販路を開拓したいという思いもありました※4。
その後、七人のサムライの情熱により、1975年には「古伊万里名品里帰り展」が、1979年には有田マイセン姉妹都市提携が実現します。創成の頃から有田焼がもっていた国際性は20世紀も受け継がれ、七人のサムライをして、第二次世界大戦がもたらした国と国の壁さえも乗り越えさせるものでした。その精神は、21世紀の今日も、有田の陶磁文化の深化と発展に大きく貢献しています。
- ※1 Masako Shono, Japanisches Aritaporzellan im sogenannten Kakiemonstil" als Vorbild für die Meißener Porzellanmanufaktur Gebundene Ausgabe, 1973, Editions Schneider GmbH
- ※2 ヤン・ディヴィシュ『ヨーロッパの磁器』1988年、岩崎書店
- ※3 深川正「海を渡った古伊万里」1986年、主婦の友社
- ※4 清水のり子「皿山遠景・II 国際化の通路を開く~東独を訪問した七人のサムライ」『おんなの有田皿山さんぽ史』1998年、有田町教育委員会