有田焼創業400年事業 - 佐賀県が取り組む17のプロジェクト - ARITA EPISODE2 - 400 YEARS OF PORCELAIN. NEW BEGINNING. -
ARITA EPISODE2 BY SAGA PREFECTURE
ENGLISH / JAPANESE / FRENCH

History

有田焼400年の歴史

文: 木本 真澄

1646年―赤絵付けの成功

 17世紀中盤、磁器生産が軌道に乗ってきた頃、鍋島藩は「運上金」と呼ばれる税金の大幅増税を断行します。増税に苦しみながらも、窯元たちが運上金の値上げに応じることができたのは、高い税金を払っても食べていけるだけの利益が出るようになっていたからです。当時、焼き物は有田町から10キロあまり離れたところにある伊万里港から出荷されました。伊万里港には筑前の芦屋商人や紀州(和歌山県)箕島の紀州商人、北前船の近江商人や新潟商人など、全国の商人たちが買い付けにやって来ていました。

 伊万里の商人たちは各地の商人たちからの注文を受けて買い付けを行い、「荷師」や「荷担人(ににゃあにん)」と呼ばれる人たちが有田から伊万里へ焼き物の運搬業務を請け負いました。焼き物が壊れないように藁で包む梱包技術をもった人を「荷師」といい、焼き物を担って歩く人を「荷担人」といいます。毎日50人ほどの荷担人が伊万里と有田を結ぶ街道を行き交い、焼き物の流通を支えていたのです。

 磁器の需要が伸び、有田磁器が人々の生活に浸透していくなかで、さらなる飛躍をもたらしたのが「赤絵付け※1」の成功でした。このとき重要な役割を果たしたのが東嶋徳左衛門という伊万里商人です。初めて赤絵付けに成功した喜左衛門(初代酒井田柿右衛門)から続く酒井田家に伝わる「赤絵始まりの覚」には、「赤絵切り伊万里東嶋徳左衛門申者長崎にて志いくわんと申唐人より伝受仕候」と書かれています。

History

 長崎で“しいくわん”という中国人に大金を払って赤絵付けの方法を教えてもらい、東嶋徳左衛門は、それを喜左衛門に伝えたということです。

 「某本年木山に罷居候節相頼申候故右赤絵付立候へ共能無御座候(頼まれて赤絵付けを試みたがうまくいかなかった)。其後段々某工夫仕呉須権兵衛両人にて付立申候(その後工夫をして呉須権兵衛とともに赤絵に成功した)」という文章が続きます。ここに出てくる呉須権兵衛という人物について、日本人であったとも明人であったとも言われますが、定かではありません。

 この頃、中国では清(1644~1912年)の時代が始まっていましたが、明(1368~1644年)の抵抗勢力との戦いが続いていました。南部の沿岸地域は攻防の真っ只中にあり、世界最大の磁器産地、景徳鎮の生産・輸出も滞っていました。こうした中国の社会情勢や、この頃の有田焼の製造技術において、赤絵以外にも糸きり細工や墨弾きと呼ばれる装飾法、窯詰めの方法などが中国的技術に変わっていることから、明の陶業者が有田に流れてきた可能性も指摘されています※2

  • ※1 有田町歴史民俗資料館ブログ「泉山日録」
    「有田では“色絵”という言葉は事実上の禁句」であったため、赤絵という場合は色絵の意味。上絵付業者は“赤絵屋”、用いる窯は“赤絵窯”であり、赤絵屋が集まっている場所は“赤絵町”と呼ばれる。
  • ※2 大橋康二:佐賀県立九州陶磁文化館名誉顧問(前館長)『海を渡った陶磁器』2004年、吉川弘文館
History

ARITA EPISODE2 BY SAGA PREFECTURE FAN PAGE

ARITA×NOBU PROJECT-A
ARITA×NOBU PROJECT-B
【DINING OUT ARITA 2015】 シェフ アンドレ・チャン&ホスト 中村孝則インタビュー
DINING OUT ARITA 2015 Report
DINING OUT ARITA with LEXUS
DINING OUT ARITA 2015 special movie 「ARITA」
André meets ARITA
DINING OUT ARITA 2015 PV
ARITA EPISODE2 -Professional Use Project vol.1 –
世界は、解き放たれ、そして、連なっていく ‐ 有田焼
Espace teamLab -World Unleashed and then Connecting-
Future Arita porcelain cafe / 未来の有田焼があるカフェ
ARITA EPISODE 1 (1616-)